ヒンドゥー教徒はお墓を作らない

お墓とは、基本的には、
-死体置き場-
です。
お墓の問題は霊魂の処理とは無関係です。
前に出てきた火葬の問題も、単に死体の処理だけの問題だと考えたほうがいいと思います。
現在日本では火葬がほとんどですが、わたしはできればほんとうの火葬にしてほしいと願っています。
ほんとうの火葬とはなにかといえば、全部焼き上げてほしいということです。
さっきの伊丹十三さんの映画の話にもあったように、火葬場では、今なんとか骨を残すために、火力をコントロールしています。
しかし、これは難しい技術なのです。
逆に、火力を上げるのは簡単です。
上げれば全部灰になります。
灰すら残らないようにできます。
ところが、それでは遺族が納得しないということで、火力をコントロールして、のどぽとけが残るようになどと工夫して火葬にしている。
しかし、これが難しいのです。
だから、わたしはできれば全部焼いて、なにひとつ残らないようにしたほうがいいと思っています。
故人を天界に送り込むんだという思いで、そうしたほうが執着が残らないはずです。
仏教の発祥地であるインドでは、お墓を作りません。
インド人は、家族が亡くなると死体を全部焼き、ガンジス河に一切合財流します。
わたしがインドに行った時、ガンジス河の岸辺に死体処理場があり、焼き場がありました。
そこは、満月の夜に舟を浮かべて見るときれいなところです。
わたしが連れていった人が、その風景を写真に撮りたいと言い出しました。
しかし、インド人のガイドは撮ってはいけないと言います。
わたしは最初知らなかったものですから、ガイドにお金を渡し、「みんなが撮りたがっているのだから、なんとか撮らせてやってよ」と頼みました。
わたし自身はカメラを持っていませんでしたし、写真にも関心はありませんから、軽い気持ちでお願いしたわけです。
すると、ガイドは船頭などにもお金を渡して交渉し、「目をつぶりますから、フラッシュはたかないでください」ということで撮らせてもらったのですが、そのあとで、インド人ガイドにしかられてしまいました。
「あなたは、わたしたちがお金がほしいから写真を撮るなと言ったと思っているだろう。だが、それは違うんだ。わたしたちヒンドゥー教徒は、死者を天界に送りたいんだ。この世に執着を残さず天界に返したいというのが遺族の願いなんだ。だから一切合財を焼いてしまうんだが、それがフィルムに残っているとこの世に執着が残る。それを知った時の遺族の悲しみを考えてくれ」
わたしはそういって怒られたのです。
それ以後、わたしは同行者に絶対に写真を撮るなと言っています。
ですから、わたしは墓など残さないという考え方が好きなんです。
しかし、日本人には火葬という風習はありませんでした。
いや、歴史を調べるとまったくなかったというわけではなく、高貴な人の火葬が行われる以前にも記録があるのですが、それは特殊な例で、伝染病で死んだ人が火葬にされたという形跡がある程度です。
でも、これはほんとうに特殊な例で、一般には土葬でした。
火葬にしないかぎり死体は消えませんからどこかに葬らなければなりません。
それがお墓だったわけです。
お墓のいちばんの目的は、死者が化けて出てこないようにすることです。
ですから、死体は棺おけに入れるのですが、その時に死体を縄でぐるぐる巻いて棺おけの中に入れました。
これを地方によって「極楽縄」とか「地獄縄」といいますが、要するに死体が絶対に起き出して出てこないようにするために縄で縛るのです。
あるいは、古い埋葬例を調べてみると、死体の手足の骨をぽきぽき折っているようなものも見つかります。
これも死体が動けないように傷つけてあるわけで、死体が起き出すのが怖いからです。
だから、死体はできるだけ深く埋めて、出てこないように大きな石をぽんと載せました。
これが、
-墓石-
です。
だから、お墓を立派にするということは、死んだ人に「出てくるな、化けてくるな」と言っているのに等しいとわたしは説明しています。
遺体を捨て、死んだ人を封じ込めること、それがお墓の主目的であります。

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東西のお墓の違い

同じ日本でも、東と西とではだいぶ習俗が違うようです。
東・・・単墓制
西・・・両墓制
だいたいそれが主流です。
「両墓制」というのは、お墓を二つ作るわけです。
一つは「埋め墓」といい、死体を埋めるお墓です。
もう一つは「参り墓」といい、お参りするためのお墓です。
埋め墓で土葬にした死体がある程度白骨化すると、その白骨化したものを参り墓に移し直すのです。
あるいは骨なんかなしで、参り墓を別に作ります。
沖縄などでは「洗骨」といって、いったん海岸あたりに骨を埋めます。
※洗骨についての詳しい情報はこちら
そして海の水が骨を洗って白骨化すると、それをもう一度参り墓に移し直すという習俗があります。
ところが、関東のほうではあまりそういうお墓を作っていません。
基本的には、お墓は「埋め墓」です。
「参り墓」というのは、別に骨がなくてもいいわけですから、いわば顕彰碑のようなものです。
それと埋め墓とは全然違うものです。
埋め墓は怖いものです。
昔は土葬ですから、田舎の子どもなんかがお墓の上で遊んでいると、突然いなくなったりすることがありました。
それは、お墓の中で死体が全部腐って土が真空状態になり、子どもがその上に乗った途端トーンと落とし穴に落ちるようにお墓の中に落ちてしまうのです。
だから、死体が埋めてあるところは怖くてだれも近づきませんでした。
したがって、最近のお坊さんが「お墓参りをしろ」と言う時のお墓とは、参り墓のことをいっているわけです。
土葬の埋め墓なんかは、怖くて近づけなかったのです。
ところが、現代ではほとんど火葬になってしまったので、お墓参りを勧めることができるようになったということです。
今、現代では火葬になったと言いましたが、日本人の行っているのはほんとうの火葬ではなく、「火土葬」とでもいうべきものです。
ほんとうの火葬とは、わたしはインド流のものだと思います。
要するに、火葬にするのであれば焼けるだけ焼いて、残った骨は全部流したほうがいい。
捨ててしまったほうがいい。そ
れがほんとうの火葬です。
ところが、日本の場合まだ土葬の名残があるから、遺骨に執着してその遺骨をお墓におさめるんですね。
だから純粋な火葬ではないとわたしは思います。
その中途半端さが、単なる骨の捨て場であるお墓に対して幻想を抱かせ、迷いを生じさせることがしばしばあります。
ある時、ひとりの読者から手紙が舞い込んできました。
「このたび主人が死にました。そのお骨をどうしようか迷っています。というのは、実はわたしは後妻なんです。死んだ主人の骨を先妻と同じお墓に埋めると、今度わたしが死んでそこに入ると三角関係になってしまいます。子どもたちは、この際、別にお墓を作ればと言ってくれるのですが、そうすると、わたしと主人が入ることはできても先妻はいつまでも寂しい思いをするでしょう。どうしたらいいんでしょうか」
という内容の手紙なのです。
わたしは、「いいですか。ご主人も先妻も、お墓の下にはいないんですよ。三角関係なんてばかなことを考えなさんな」とアドバイスしたんですが、これなんかも、単なる遺骨の捨て場であるお墓に、人間の魂がいつまでもいるように思い込んでいる典型的な例だと思います。
お墓を大事にしなさいと言うお坊さんのことばが、みんなにそんな錯覚を振りまいているのではないでしょうか。
夫婦仲の問題で、「今の夫とは決して同じお墓にいっしょに入りたくない」などという声も増えていますが、これだってお墓に対する執着で、いつまでも自分がお墓の中にいるという思い込みです。
それが進歩的で自立した女性の考えというなら、それはむしろ迷信にとらわれた退歩的な考え方といったほうがいいでしょう。
お墓の問題は、基本的には死体の処理の問題で、決して霊魂の処理とは関係ないということを銘記すべきです。

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